
もともと私は絵画教室の先生をしていました。児童画、デザイン学校の講師などをしていて、今と違い洋画を描いていたんです。
「私は好きな絵を描いて、ボヘミアンのように自由な生活がしたいのに、今の生活は何だ。教えてばっかりで自分のことをなんにもしてない。もう我慢の限界だ!」と、そう思った翌日から荷物をまとめて、ヨーロッパの古典画法を学びにスペインに行きました。今から30年前のことです。
そこで見た数々の美術に心から圧倒されました。なかでも、ミケランジェロの聖ピエタ像を見た時には足の力が抜け、1時間じっと見続けましたね。これは日本人が同じやり方で洋画を描いたところで逆立ちしても勝てないなと悟りました。
その後スペインには2年ほど滞在し、ヨーロッパを中心に30カ国以上放浪の旅をしました。各国の美術館などを見て回っているうちに、マネやゴッホ、モネ、クリムトなどの歴史を代表する偉大な画家が、日本の浮世絵に多大な影響を受けていることを知ったのです。
ウィーン万博が1873年に開かれて、初めて立体的ではなく平面の中に表現する浮世絵などの日本美術を見て、当時のヨーロッパの芸術家が驚嘆しました。そして日本の美術の要素を取り入れて、「印象派」や「アールヌーヴォー」へとつながっていった。20世紀の近代美術の生みの親は日本だったということに気付かされました。
私はそれまで20年間洋画を描き続けてきましたが、日本的なものをきっかけとして印象派が生まれたという事実も知らずに、日本美術からヒントを得た洋画を真似していました。本来ものすごくいいものを持っていたにもかかわらず、それをうまく取り入れたヨーロッパの美術に憧れているわけです。おかしな話ですよね。生活・文化そのものが欧米化された結果、本来持っていた何かを忘れてしまったのかもしれません。
そんな中で日本に帰ってきました。しばらく経ったある日、能を観に行こうと知人に誘われました。能を観て、稲妻に打たれたような衝撃を受けました。今まで40年間いろんなものを描いてきたけど、探していたものはこれだったんだ!と直感で感じました。すぐに取り憑かれたように全国各地で開かれている薪能を徹底的に観て歩きました。3年間で1000曲を超える舞台を目に焼き付けました。それから能絵を描き始めたんです。
能は何の想像力も働かせずに観ると、これほど退屈なものはありません。あるフランス映画の監督が死刑囚に向かって、「ギロチンで死刑にするより、能を3回観せたほうがいい」と言ったという話もあります。観る側がイマジネーションを持ち合わせていなければ、これほど苦痛なものはないっていうことなんです(笑)。かと言えば、同じフランスの俳優であり演出家のジャン=ルイ・バローは、「能は世界最高の芸術だ!」と大絶賛しています。それほどまでに完全に評価を二分する面白い芸術なんですね。
私の描く能絵は、日本画特有の平面的に構成した絵ですが、それ以前に洋画を20年間描いてきたことから、その影響も色濃く混じっています。色使いや構図などは写実性を表現するよりも、それぞれに意味を込めた文様で構成し、装飾性を持った琳派に近いイメージで、ある意味では不完全な形をもって完成とさせているんです。
私は、芸術においては、フィクションは本物に勝つと思っています。かつて日本画が、1800年代後半にヨーロッパに大きな影響を与えたのは、フィクション的要素を含んでいたからです。それまでの洋画というのは、写真のように写した絵を描くことを美としていました。そこへ日本画が、立体的な洋画の作風とは全く違う、平面的な作風をもたらしました。フィクションであり、不完全であるからこそ、想像が生まれる。見る人によって全く新しい解釈ができるんです。無限の可能性を、見る人一人一人に委ねることができるのです。
この絵を描くのにどれぐらい時間がかかるんですか?と聞かれたら、自分の年齢だけかかると答えます。今なら「60年かかります」と。それはやはり世界を放浪して、現地で出会った人々の笑顔や、ミケランジェロの作品を見た時の震え、また京都東山から昇る朝陽を見た時の感動など、すべてが織り交ざって、初めてこの能絵が描けるんです。
今、能絵師という人は私しかいません。なぜなら私が能絵師という言葉をつくり自分で名乗り始めたからなんですが、私の描く能絵にはこれまでの60年間の経験が詰まっています。目標は、ニューヨーク、ロンドン、ウィーン、そしてスペインの画商と契約して、世界中に私の絵を広めること。3年前からニューヨークに4点置かせてもらっています。まだまだこれからです。
日本がかつて19世紀末にヨーロッパの美術に多大なる影響を与えたように、私の能絵が、100年越しに新たに欧米に影響を与えることができれば、これ以上の喜びはありません。

