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京都で生まれ育ち、京都から出たことがないぐらいずっと京都でした。家業の友禅染めを継いで、20年近くこの道一筋でやってきましたが、ちょっともうこのままではしんどいなと感じ、祖父から受け継いだ大切な仕事でしたが、40歳を迎える前に家業を畳む苦渋の決断をしました。

次は何をしようかと考えた時に、京都を代表する伝統産業に長年関わってきた家系としては、やはり「京都に根付いた何か」をしたいという思いが強くありました。そんな折、大好きになった地ビールを飲みながらブルワーさんと知り合ううちに、地ビールが、地域密着の地場産業として地元を盛り上げていけることに気付き、感銘を受けたんです。

最初は、ビアカフェを開いて自分が好きなビールを出して、地元の人々が集まるコミュニティーを作りたいと考えていました。しかし、ちょうどそのころ近所に、まさに自分が思い描いていたようなお店の「ビアパブタクミヤ」がオープンし、せっかくの構想が先を越されてしまったと感じました。でも、それが逆に、提供する側ではなく、「作る側」に回るきっかけになったのです。将来は京都で醸造所を立ち上げたいと伝え、「國乃長ビール」で知られる大阪・高槻の壽酒造株式会社で3年間修行させてもらいました。2017年から独立に向けて動き出し、2018年3月、念願のビール造りが始まりました。

私のビール造りのコンセプトは、「食事との調和」です。食事を楽しみながらビールも楽しめる、食中酒を目指しています。日本の食文化は食事と一緒にお酒を楽しむものですから、京都でやるからには、京都らしさ、日本らしさを表現したいと考えました。定番商品は、料理の邪魔をしないやさしい味わいに仕上げています。

最近力を入れているのは、地元企業とのコラボレーションです。ブルワリー同士ではなく、小川珈琲さんや進々堂さんなど他分野の事業者さんと組んで、オリジナルビールを作っています。たとえば、進々堂さんとのコラボでは、パンのアップサイクルも実現できました。地域とのつながりを大切にし、みんなで京都を盛り上げていきたいです。

私は、自分のビールを「クラフトビール」ではなく、「地ビール」と呼ぶようにしています。地ビールは地元に根差し、地域の人々に愛されるもの。一方、クラフトビールは、よりグローバルな展開を目指すもの、という自分なりの線引きがあります。私たちはこの場所で、この規模で、細く長く続けていきたい。東京や他府県にも出荷していますが、流通の中心はあくまで京阪神近郊です。「京都に来たら飲めるよ」という存在でありたいと思っています。

私が最も大切にしているのは、人とのつながりです。私たちのビールは、わりと個人的なつながりがあるところに置かせてもらっています。正しい形で提供してほしいという思いがあるからです。人とのつながりを通じて、作る人、出す人、飲む人がつながっていくことが大事だと感じています。

コロナ禍の2年半は、非常に大きな時間でした。いけいけどんどんの波に乗っていたら、今の私たちはなかったかもしれません。立ち上げ間もない時期に、強制的に立ち止まらされたことで、ビール造りへの思いや、経営の方針、世間の食に対する考え方などを冷静に見つめ直すことができました。この経験が、今の私たちの基礎になっています。

今後の展望としては、これ以上規模を大きくするつもりはありません。私たちの思いが伝わる範囲で、地に足をつけて、地道に続けていきたい。そして、ビール造りは元より、タップルームで不定期に開催しているワインの出張販売イベントや味噌仕込み会など、さまざまな形で地域との交流を深めていきたいと考えています。私たちのビールを通じて、人々の間にコミュニケーションが生まれる、そんな場所でありたいですね。

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もともと奥さんが海外に住みたいということで、オーストラリアに一年住みました。

テレビや新聞の情報が一切ない中で、いったい自分が何をしたいのかということを考えた時に、いろんな記憶が蘇ってきたんです。自分が好きだったこととか、字を書くことだったり、絵を描くことだったり…。

どうしたらそれができるんだろう?と思い、道端に座って字を書いてみようと思いました。

一週間ぐらいやろうかやるまいか葛藤があって。でも恥ずかしいけどやってみたいというのがあり、やってみたんです。始めてみたら、結構興味を示してくれて書いたものに対して喜んでくれてる。それが嬉しかったという記憶のあるまま日本に帰国しました。

何か、自分の好きなことが仕事に結びつくんじゃないかという感覚がありましたね。

島根に帰ってから、就職を考え、日本のものを海外に発信している会社はないかを調べるうちに職人.comを見つけて京都で面接を受けて、そこで京都に何かを感じ、思い切って移り住みました。

京都に来て一度は就職。周りの環境に合わせようとして。家族や親戚に認めてもらいたいというのがあって就職しましたが、やっぱり自分でやりたいというのがあり、3カ月で辞めさせていただくことに。自分にとって無理がない形でやりたい。そこで京都でもオーストラリアでやっていたように、道端で字を書き始めました。

資格を持ってるわけじゃないけれど、「書家」って名刺に入れてみてやり始めたんです。今の現状からすると、徐々に現実が、「書家」に距離が縮まってきているような気がします。

パッケージや看板を書いてほしいという出会いなどもあり、2年ぐらいの間に広がってきました。応援してくれる方々が徐々に増えて感謝してます。

いざやろうということで、一歩踏み出したところで、現実を追いつかせそうとして、最初は楽しいって感覚で。次に苦痛な部分が来て、でももうちょっとやってみる。するとその上にまだあったりして。今までは苦痛なところでやめていたのだけど、それ以上を見たいという気持ちが今は勝っています。

書道はひとつの手段、一番嬉しいのは自分が書いてもらったことに対して喜んでもらうこと。感覚的に他者に喜んでもらうことが嬉しい。

先日老人ホームでお母さんにプレゼントしたいということで、字を書かせていただきました。プレゼントしたことによって、よりよい関係になったりして「ありがとう」って言葉が出る。普段の生活ではあまり出ない言葉ですよね。本当はもともとつながっている関係なんだけど本音でしゃべれないことって多い。本音でしゃべったらすごくいい関係になれると思います。

僕は、自分が生きてたことでよりたくさんの人が幸せになってくれたら嬉しい。自分がこの世にいて役に立ってるということ。他者とのかかわりを持てないものには興味が湧かない。

僕にとって、自分が生きてる目的、役割を確認したいというその手段が書道なんです。「自分に素直に生きたい」 と、勇気を出して一歩踏み出したことが良かったんだと思います。

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関西大学の法学部を卒業してから弁護士になろうとしていましたが、なかなか受かりませんでした。難しい試験で8、9年ぐらいやってましたかね。

そうこうするうちに両親が病気で亡くなり、おばあちゃんも亡くなり、天涯孤独になってしまいました。

気力も萎えて、何したらいいかという感じになって。バブルが崩壊したばかりで良い仕事が見つかりません。大学の時に取った宅建の資格があったので、不動産会社を受けようとするも採用を控えている様子。

じゃあ自分でやるしかないということで、祖父が残してくれたこの家もあったのでそう決意しました。まずは小さい会社で働いて勉強させてもらおうと思い、賃貸に半年、売買に5~6年いました。

そこで分かったのはやっぱり自分でやってみないと結局分からないということです。その時その時の取引でいろんなことが起こる。それを結局は自分で解決していくしかない、マニュアル的に覚えて独立できるものではないと知りました。

6年修行し、このぐらいでええやろと思い、えいやーと平成9年独立。平成10年に結婚したこともあり、家内に助けられながら、ほそぼそとツテの紹介などで食いつなぎ、どん底に近い生活をしました。そうこうしているうちに町家ブームが来たんです。

左京区の大工さんが作業場に使っていた物件を、ヤフーの不動産に出したらすごい引き合いがありました。それが第1号ですかね。

次に京町家まちづくりセンターのメンバーに入れてくださいと売り込みに行きました。そして講師とかをさせてもらうことに。 財団法人の専門相談員になることで信用も付き、一度セミナーをすれば二、三人家主になってくれました。

また、京町家情報センターというNPOの発起人の一人になりました。そこを経由して、雑誌とかテレビとか出させていただくことに。これで広告ができてしまった。

奥さんが作ってくれたサイトも本当に役立ってます。今でも一番がサイトからのお問い合わせです。今は紹介のお客さんが多い。4割ぐらいは仲介のお客さんのご紹介。

現在は管理が50軒。更新だけやってるのもあります。それだけでつながってる家主さんもいて。管理報酬はそんなに多くはありませんが、安定して毎月入ってきます。それに賃貸の仲介、売買の仲介があります。売買の仲介は取引できると大きいですが、景気の変動に左右されるので、それだけをするのは今はかなりしんどいと思います。

次に町家に入る人を決めるのは、実は不動産屋です。なかには挨拶もしない、マンションみたいな感覚で借りる人もいて、そういう方には京都のことを最初にお伝えしています。

もちろん売上を上げないと食っていけないですが、それだけだと結局まちはどうなっていくのかなと思います。地域に溶け込める人に住んでもらいたい。だから人によってはこちらからお断りすることもあります。うちは物件情報は公表してなくて、実際にお会いしてから出させていただいてます。適度にクローズドでは行きたい。

これからもやっていきたいのはまちづくり。自分が仲介したところがカフェになったり美容室になったり。その変わりゆく様を見るとやりがいも責任も感じますね。