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鳥居株式会社は明治5年創業の美術織物問屋です。

京都の伝統工芸品である西陣織の金襴(きんらん)や緞子(どんす)を取り扱っています。金襴というのは金の糸が織り込まれた特殊な布地で、職人さんによって伝統的な手法で作られており、5メートルで百万円もする高価なものもあります。

寺社仏閣の屏風やふすま、掛け軸の表装に使われるのですが、今は美術品が売れないし、掛け軸を飾るような床の間のある家も少なくなっているので需要が減っています。売れなければ、職人さんは作ることができない。このままでは技術も廃れていく。

そこで、金襴や緞子を使って、一般の人に向けたものが作れないかと考えたんです。最初に作ったのは、アクリル板と金襴緞子を組み合わせたオブジェです。床の間ではなく現代建築の空間に合うものをと思って作りました。

その後、京都商工会議所が主催する京都スタイルカフェに、鳥居の布を使ったさまざまな商品を出品するようになりました。

「鳥画 DOLIGA」というブランドも立ち上げました。これは、インテリアテキスタイルを中心に活動しているユニット「柄画 GARAGA」とのコラボレートブランドで、七宝型、沙綾型といった伝統模様を現代の感覚でデザインし直した大胆なプリント柄と西陣織を組み合わせた商品を作っています。

こうした活動を通して、少しずつ鳥居の商品が知ってもらえるようになりました。今年の3月にオープンした東京ミッドタウンにある日本製にこだわったライフスタイルショップ「THE COVER NIPPON」にも、袱紗や箸袋などの商品を置かせてもらっています。

最近では、海外でも鳥居の商品が使われています。ニューヨーク・トランプタワー1階の、有名インテリアデザイナーによるジャパニーズレストランの壁紙やパーテーション、椅子に鳥居の金襴などを使ってもらっているんです。

実は、家業を継ぐ気は全くなかったんです。だから、大学卒業後は東京のアパレルメーカーに就職して広報やデザイナーの仕事をしていました。それが4年前に京都に戻ることになって、家業を手伝い始めたんです。

当時は商品のことを何も知らなかったし、古いものに全然興味がありませんでした。でも、この世界は知れば知るほど奥が深くて、日本の歴史が作り上げてきたものだということを実感しています。

表具の歴史は、もともとお茶の世界から始まって、美術を鑑賞するという文化から発展していきました。昔はどの家にも掛け軸があって、季節が変わるごとにそれを掛け変えたりしていました。掛け軸を巻いて箱に戻す作業。そういう体験が子供のころになかったら、自分でしようと思わないし、伝統や大事なものがぷつんと切れてしまうのではないかと思います。

今の日本人には引き継がれたものを大事にしようという感覚があまりない。それはやっぱり世帯が分かれていったことが原因です。昔はおじいちゃん、おばあちゃんが同じ家に住んでいたから、古いものや大事にしてきたものが分かる。自分の親の世代しかいなかったら、分からない。文化って何かと言われたら、世代を超えたものを引き継ぐということだと私は思います。

日本の文化というのは、インドや中国から東へ東へ日本に持ち運ばれて、蓄積していったものが多い。金襴緞子も鎌倉時代に中国から伝わったものです。そうした古いものを大事にしてきたから日本文化がある。

今は携帯やパソコンで情報が動いていく時代だけど、変わらないものも大切にしなければいけない。だから、うちも本業を続けていかないと意味がないと思っています。

本業があってこそ新しいことができる。縮小はされていくと思うけど、本業を続けながら新しいことをやっていく。どちらの仕事も続けていかなければならない、と。

家業を手伝い始めたころは企画の仕事だけをしていきたいと思っていたんですが、今、会社を存続するために経営の勉強もしています。うちが織屋さんと表具屋さんをつないでいる。だから、商売の根本を勉強して売る場所を作っていきたいです。

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実は、僕は京都の職人の家に生まれたんです。父も祖父も曽祖父も、代々着物に家紋を手で描き込む職人です。でも、その世界が大嫌いだった。家紋を描くというのは、一日中机に座ってやるすごく細密な仕事。自分の性格として外に向けていろいろやるのが好きだったので、やりたい仕事じゃなかった。中学、高校を卒業していったんは地元の大学に入りましたが、マスコミの世界に行きたくて立教大学に入り直しました。マスコミの世界に行きたかったのは、自分自身がいろんな場所に赴いて、多様な文化に触れたいという思いがあったからです。

大学卒業後は『日経トレンディ』の記者になり、その後『Number』に誘われてスポーツジャーナリストになりました。それから約10年間は寝ても覚めてもスポーツの世界を追いかけていましたね。結果的にスポーツを追うことになったけど、昔からスポーツをやりたかったわけではないんです。何かを伝えたいというのが最初にあって、たまたまスポーツに巡り合った。そして、スポーツを通して、スポーツ以外の音楽やファッションといったクリエイティブなつながりや人脈ができてきた。そこで、そうしたものを使って、スポーツの雑誌を作るだけじゃなく、さまざまなメディアを通じて、切り口やテーマを変えて、文化を発信したいと考えて「クリップ」を設立しました。

衣食住、文化、遊び、すべて含んで、それぞれの魅力を引き出して、クリップして、新しい見せ方や表現にする。それが僕の仕事です。現在約30のプロジェクトを同時進行していますが、多方面からお声がかかります。

一例を挙げると、石川県のJAに東京で何かできないかと依頼され、東京のレストランと組んで、石川県の食材だけを使ってイタリアンを作るといった展開をしています。石川県の人は農作物を一生懸命作っているが、それをどう発信するかのノウハウがない。そこで、ヒトとモノとコト、上手に組み合わせて発信するということをやっています。

それは世界に向けてもやっていて、少しずつですが日本酒を世界に持っていくということもしています。ニューヨークの人は日本酒を飲みたがっているけど、いい日本酒を飲んでいないからダメなんですよ。だからニューヨークの人に日本酒をちゃんと伝えてあげるというようなこともやろうとしています。

フランスでは、フレンチの天才シェフ、アラン・デュカスのレストラン「ブノワ」で、レストランを一つのメディアにして、フランスと日本の文化をクリップして発信しよう、という計画も。

京都とフィレンツェのビジネスマッチングもしています。たとえば、イタリア家具カッシーナと京都の布団屋さんの組み合わせ。面白いですよね。このように、相性のいい文化と文化の組み合わせ、そこで作られているもののマッチングを考えたりもしています。

京都が嫌いでいったんは飛び出したけど、やっぱりなぜこうして京都と関わる仕事をしているのかというと、京都は魅力的だし、それを伝えられていないからです。

35歳を越えてから、また世界を見て初めて見えてきたものがたくさんあります。京都全体の持っている空気観、世界観。そういう歴史を育んできた京都の町衆は、外から客観的に見ても魅力的だと思う。

家紋の仕事も、昔は狭い視野しか見えてなかったから、京都の職人の地味な仕事としか映らなかった。でも、今は父親や家紋の仕事を代々引き継いできた祖先を尊敬しています。だから、何か伝えたいという気持ちはすごくある。家紋を手描きするという仕事は継げていないけれど、家紋の文化を伝えたい。

今、自分の家の家紋が分からない人が多いですよね。そういうのをちゃんと分かるように伝えてあげたりもしたい。それは、地域の活性化にもつながるし、何より自分のルーツを探ることは今の自分と未来の自分を真剣に考えるきっかけになる。究極的に何がやりたいかというとそういうことですね。